久々にまともにブルーのネタです。
前回の記事より、気づけば4ヶ月。間を空けて本当にスイマセン
関連する前回の記事は以下二つです。
GUNDAM LEGACY-RECORD 02 蒼き宇宙の彼方に
宇宙世紀0093年のユウ・カジマ その1-----
宇宙世紀0093年のユウ・カジマが定着した経緯は「その1」で書きました。
その中で、現在でもファンの間ではたまに
「逆シャアのクライマックス、アクシズに取り付くも飛ばされそうになるギラ・ドーガの腕を掴んだジェガンのシーンがあったが、実はあのジェガンにはユウ・カジマが乗っていた」
と、話題になることがあります。
「そうだったのか!」と思う方、「おまえは何を言っているんだ」と思う方、さまざまと思いますが、
今回は「ギラ・ドーガの腕を掴んだジェガン」について話をしてみたいと思います。
◆その初出
そもそも、その話の出どころはどこなのか?
これは「宇宙世紀0093年のユウ・カジマ」を描写した、小説版がモトとなっています。
その描写を抜粋してみましょう。
大気の上層と触れ合う機体は、いっそう震動していた。風圧が、俺の傍らのギラドーガを小惑星の表面から引きはがすのが見えた。
とっさ、俺は敵機の腕を掴んでいた。だが、支えきることはできなかった。
ギラドーガはアクシズの表面を跳ねながら、後方へ飛んでしまう。『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のクライマックスのワンシーン、ギラドーガの腕を掴む、名も無き連邦兵のジェガンのパイロットをユウ・カジマとした描写です。
「その1」でもあったように、この時代のユウ・カジマの描写自体が作者からのファンサービス的なものであったため、この手を掴む描写も同じくファンサービスだったと思われます
◆小説版「THE BLUE DESTINY」のフィードバック現象
ここで、小説版「THE BLUE DESTINY」の影響力にも触れてみたいと思います。
「THE BLUE DESTINY」という作品は、原作ゲームの段階で詳細な設定(※1)が無かったため、小説版では独自の設定を新規に加え、補完していました。
そして「THE BLUE DESTINY」がガンダム関連書籍などで紹介される場合、詳細な設定が記述された小説版が引き合いに出される場合が多くみられました。
そしてファンサイドで作品を語りあう場合も、同じく小説版が引き合いにだされることが多く、小説版の設定=作品の設定として
認知され、「半ばオフィシャル」化する現象がおきたわけです。
(代表例として、ユウの所属する実験部隊がの名称が『第11独立機械化混成部隊』という設定)
話は戻りまして…
「ギラ・ドーガの腕を掴む、ユウのジェガン」この描写は原作ゲームには無い、小説版独自の描写。
ファンサービス的なものであって公式ではありませんでした。
そのはずでしたが、これもまた引き合いに出されることが多かったため、
「ギラ・ドーガの腕を掴んだのは、ユウのジェガン」というのが広く認知され、「半ばオフィシャル」化していきました。
その駄目押しが、『Gジェネレーション』シリーズ。
*(画像準備中)
ギラドーガの腕を掴むも、離れてしまったジェガンの、1枚のイラスト。
ゲームではこのジェガンにユウが乗ったとは明言されてませんでしたが、これによって「逆シャアのあのシーンでは、ユウがあのジェガンに乗っていた」という話が広く知られていったと思われます。
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※以下、当て推量な個人的意見となります
◆富野監督の意図
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のラストシーン。
ジェガンに乗ったパイロットは、敵であるはずのギラ・ドーガが飛ばされようとした時、
思わず手を伸ばす。
アムロの意思に共感し、アクシズに取り付いた者たち。
「地球を守る」という意思が一つになったあの瞬間、それぞれのパイロット達に連邦とネオジオンの区別、
敵・味方の区別はなかった。
名も無きジェガンのパイロットはその象徴であり、一連のシーンはその縮図である
…というのがあのシーンの監督の意図と思われます。
だとするならば、あのパイロットに名前があっては、いけないのではないだろうか?
名がないことであのパイロットは象徴になりえたのだと思う。
名前ならまだしも、さらにあのパイロットに「ユウ・カジマ」という一個の人物の個性が加わると
”ユウの意思で行われた行為”ということになってしまう。
そういう意味では、小説版の描写は、富野監督の意図を捻じ曲げたもの、と言えるかもしれません。
◆ユウがそこにいたという証
ユウがギラ・ドーガの腕を掴むという描写は、あくまで、ファンサービス。
宇宙世紀0093年、アクシズ攻防戦に彼が参加した描写に映像で動きのあるシーンを使えば、
読者は映像でも”ユウがそこにいた”というのを感じることができる。
まして、特に印象の深いシーンならば、なおさら。
小説版はそういう意図で書かれたのではないか?と思います。
そしてユウがあの行為を行うという展開ができたのは、
小説版が
「サンライズ”公認”であるが、”公式”とは限らない」というスタンスで描かれたから、ではないでしょうか。(※2)
(ガンダム公式辞典のインタビューでもその意図は伺えます)
だからこそ”公式”の映像作品である『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のワンシーンに、富野監督の意図を変えてでも独自の演出ができたのではないでしょうか。
たまにネットで「あのジェガンのパイロット論争」を見かけ、そのたびに
「勝手に設定を後付された!」という意見がありますが、
肯定派も否定派も、あの小説版が”公式”ではないという事実を見落としているような気がします。
もっと身も蓋もない言い方をすれば
「これはこれ、それはそれ」。あくまで楽しんでもらうのが意図であって、著者である皆川ゆかに
「ギラドーガの腕を掴んだというのはユウだった、ということに決定しました!」
という意図は、微塵もなかったのではないでしょうか。
◆結論
公式設定としては
「ギラドーガの腕を掴んだジェガンのパイロットは、ユウでは無い」。これは、確定だと思います。
しかし、小説版を読んだ自分としては…
小説版の冒頭の描写にド肝を抜かれ、ユウがたしかに宇宙世紀に生きた証として
描かれた一連のシーンに感動したのは、まぎれもない事実。
あのパイロットがユウであった、と信じていたい。
でも、アレが名無しのパイロットであるからこその感動も、わかる。
だから、あくまで
「これはこれ、それはそれ」。「あのパイロットはユウですよ!」と声高に叫ぶのではなく、
信じたい人が信じればいいし、それを強要する必要も無いものだと、僕は思います。
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※1
ここでいう「詳細な設定」とは、小説という媒体で物語を展開するにあたり必要だった詳細設定。
また、それはガンダムファン、マニアが求めるレベルの設定でもある。
原作ゲームの設定に不備や手落ちがあったという意味ではありません。
※2
”公式”と”公認”について。あくまで自分なりの解釈。個人的見解なので、多少の誤解があるかもしれません。
”公式”は、いわゆるサンライズ認定の、公式設定。
ここでいう”公認”とは、要するにガンダムを題材に商売することをサンライズに”認めて”もらった状態を指します。
それでもサンライズからチェックが入り、ガンダムの世界観から大きく外れることは許されず、”公式”にも成り得ない。
しかし、だからこそ”公式”との面倒なつじつま合わせの必要がなく、ある程度設定を自由に作り出せる。
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前回のコラムより4ヶ月以上間を置いたわりには
結局、言いたいことをうまくまとめきれなかった感があります。
この辺の問題はまたいつか再考してみたいと思いますが、今はこれが精一杯。
もっと精進します…
[16回]
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